飾らずに 君のすべてと
瀬戸 真朝
──宛もなく走り続ける夜
届かない思いだけでペダルを押して
気持ちとは裏腹に 前へ、前へ。
心臓の鼓動が、いつにも増して大きく聞こえる。
閉じた携帯電話を片手に持つことだけは忘れずに、勢いで家を飛び出した私は自転車を漕いでいた。
週末の深夜は車通りも少なく、下り坂に出ると車道を駆け抜ける。強い向かい風が行く手を拒むように思える。
風が横を吹き抜ける音と古びたタイヤの擦れる音以外、周囲は無音だった。……いや、無音ではなく聞こえていなかっただけなのかもしれない。
──漕ぐことから意識を逸してしまうと、あの電話の声がまた聞こえてしまうから。
車窓からは何度かは見たことあったが、その湖に自転車で行くのは初めてだった。
ましてやこんな真夜中に、一人で。
ともかく目的地が欲しくて、思い付いたのがこの湖だった。
どのくらい漕ぎ続けたか分からないがここまで来ることだけを考え、ただひたすら自転車を漕いだ。
無心になりたかった。じゃないと、考えてしまうから。
──あの人のことを、考えてしまうから。
湖畔に通じる道の手前で、自転車を止めて歩き始めた。日中ずっと降り続いた雨が止んだばかりで、月明かりもない肌寒い夜だった。
ここまで来る中、携帯電話は一度も振動しなかった。
期待はしていないつもりだった。
それでも確認の為に開いた携帯の画面を、そのまま光にする。
目の前に広がる黒い水面を遮る物は何一つなく、暗闇がただ続いていた。
立ち止まって、水面を見つめる。
涙はまだ出なかった。
外灯もない湖の畔には誰もいなかった。誰一人も。
浄化用なのか、不定期に水面から水が沸き上がっている。
その突如響きだす音を聞くと、ここに来て初めて恐れという感情を覚えた。
遠く対岸に見える街の明るさはまるで、どんなに願っても届かない幸せのように思えた。
叶わないと分かってはいても、その光の下での生活の営みを考えると、羨ましくて仕方なかった。
埋め立てによってこの湖は昔よりも三分の一程度の広さしかない、とあの人は言っていた。
周囲はコンクリートで固められて柵もなく、まるで港のようだった。
今いる場所からあと一歩踏み出せば、そこは深い水の底へと繋がっていることは容易に分かる。
足元は見えず、夜の暗闇に取り込まれそうだった。
──私はその一歩を踏み出そうとして、やめた。
この場所は浜辺と違って、死が目前にあった。
だけど、その選択肢を選べなかった。
どんなにそこにいても、携帯が何かを告げることはないと分かっていたけれど。
──結局まだ、期待してしまっていた。
それに気付くと、自転車を探しに再び携帯をライトにして、元来た道を辿った。
* * *
中学生の頃から本を読むことが好きだった。
大学に入って文学部に入部したのもそれが理由だった。
各自読んだ本の書評会を月に一度するのが主な活動だったのもあって、部員は少数だった。
与えられた部室もこぢんまりとしたものだったが、窓が一つあり、日差しがよく入った。
卒業生が置いていったものなのか、壁には一面本が敷き詰められている。
書評会以外は集まりもなかったが、雰囲気がとても好きで、本を読むのに私はこの部室をよく利用していた。
──あの人に出会ったのは、去年の夏休み前だった。
窓を開けて初夏の風を受けながら一人で本を読んでいると、いつの間にか暗くなってしまっていたらしい。
珍しく遅い時間まで残っていると突然部室の扉が開き、驚いて顔を上げると見覚えのない男の人が入ってきた。
部室の入り口に頭が付きそうなぐらい身長が高く、黒髪で肩幅も広かった。
眼鏡もかけていなく、とてもじゃないが文学部の人だとは思えなかった。
「お、こんな時間に人いるのか? 一年生?」
その声は低かったけれど、よく通る声だった。
笹川杏(ささがわ あんず)と名乗ると、自分は卒業生だとその人は言った。
「面白い先輩が去年までいたんだ。君らにも会わせたかったよ」と、先輩方の口から何度か聞いていた正にその人で、
高島洋之(たかしま ひろゆき)という名の先輩だった。
こんな時間に部室にいるのを驚かれたので本を読んでいたと伝えると、高島先輩はその本の表紙を見た。
「そんな奴のを読んで面白かったって言うのか? お前、何も分かってねぇな」
それは自分の好きな作家の新作だった。
私はついむっとして、その作家の描く孤独がどんなに秀逸で素晴らしいかを話すのに熱くなってしまった。
「それでも、そいつはまだ生きてるんだろ。
今生きてる奴の書くものなんて所詮空想で、全然生々しくない。本当に孤独を分かるって言うのは、書いた後に実際に死を選んだ奴なんだよ」
そう言って、高島先輩は昭和期の作家をいくつか挙げた。
どれも私が好きではない作家ばかりだったが、高島先輩の言っていることは一理ある気はした。
そうやって冷静になると、先輩相手に偉そうなことを言ってしまったと、内心反省した。
「ま、一年の割にお前面白いな。卒業してから久しぶりにこういう話出来たわ」
私の心配をよそに、高島先輩は満足そうな顔で笑った。
『年齢など関係なく、討論することが必要だ』とは文学部の誰もが思っていることだが、これほど歳が離れている人とこういう風に話すのは初めてだった。
だから高島先輩の笑顔を見て、肩の力が少し解れた。
「先輩相手にこんなこと言ってすみませんでした」
そう謝った途端、高島先輩の顔色は厳しくなった。
「先輩って次呼んだら夕飯奢れよな」
初対面の先輩なのに突然そう言われ、私は焦り出した。
「どうしてですか?! 先輩と呼ばせて下さい!」
「やだ。呼び捨てか、せめてさん付けだな」
はっきりそう言い放つと、それ以上の反論は認めないかのように高島先輩は私を見下ろしていた。
高校までずっと年上の人を先輩≠ニしか呼んだことがなく、ましてや四歳も年上の男の人をさん付けで呼ぶなんて考えると、何だかドキドキしてしまった。
「高島さ……無理です、高島先輩!」
恥ずかしさのあまり泣き言を言ってみたが案の定、高島先輩は満面の笑みを浮かべた。
「よし、今日の夕飯奢りな。あと、敬語も無くせよ」
そう言って高島先輩は学校近くのお店の名前を次々と挙げ始めた。
他の先輩方と違って、初対面の後輩にいきなりそう言って集ってくる姿を見ると呆気に取られた。
その後も私が何か言う度に反論ばかりされたし、夕飯も結局奢る羽目になった。
けれど夜遅いからと、自転車の後ろに乗せてくれ、家まで送ってくれた。
厳しいけれど、意外に優しい人かもしれないと感じた。
それからも、夜まで部室で本を読んでいると高島先輩は時折現れた。
時間が多く取れる夏休みが始まって普段以上に部室にいたこともあって、高島先輩と遭遇することは多かった。
ここが地元という高島先輩が日中何をしているかはよく分からなかったが、今まで読んだ本の話などをした後に二人で夕飯に行ったりもした。
もちろん、今だに高島先輩≠ニ呼んでしまっている以上、私の奢りになってしまっていたのだけれど。
それでも、家に帰って一人で食事をするよりも、高島先輩と話しながら食べる方が断然楽しかった。
高島先輩は私の意見に常に反論してきた。
苛立ったこともあったが、確かに的を射ていた。
特に、高島先輩は私の無知を非難することが多かった。
自分の好きな作家の本ばかり読んでいたこともあって、一般に名作と呼ばれるものを全然知らず、その度に「この作品を知らないなんて学がない」と呆れられていた。
そこで私は夏休みを使って、現代文学だけでなく近代文学も読むようにした。
正直言ってよく分からない部分も多かったが、中でも山月記の『臆病な自尊心と尊大な羞恥心』という感覚は分かる気がした。
そう伝えると、「ふーん。ま、お前も少しは分かるようになったじゃん」と高島先輩は笑いながらも、珍しく褒めてくれた。
実際、今まで読まなかった作家の本を読んで、視野が広がったのは感じた。
けれど、高島先輩が最初に言っていたことはいまいち理解が出来なかった。
──何故、彼らは自らの死を選んでしまったのだろう。
夏休みが明けた頃には、高島さん≠ニ呼べるようになるぐらいには接していた。
さすがに、敬語までは無くせなかったけれど。
後期が始まってからも、様々な本を読むようにしていた。
それもやはり、高島さんがきっかけだった。
──いつしか私は、高島さんと同じ目線で話がしたいと思っていた。
今みたいに自分の知識のなさを非難され続けるのではなく。
四歳も歳が離れている高島さんに追いつきたくて、ただただ本を読み続けた。
高島さんは反論するだけでなく、疑問に思ったことがあると必ず答えてくれた。
本を読み終わると、高島さんの話が聞けることも楽しみの一つになっていた。
部室にはたくさんの本があって、何度来ても読み切れないほどだった。
高島さんは馬鹿にしたり非難するだけでなく、卒業生が残した本の中でどれを読んだ方がいいかのアドバイスもしてくれていた。
指定された本の中には、高島さんが置いていったと思える本もいくつかあった。
──何故ならそういう本はどれも共通して、登場人物は最後に死を選んでいたから。
そして作者も自殺していることが多かった。
元々、孤独を描く作品は好きだった。
けれど、近代文学のそういう作品はよく分からなかった。
そんな私の読後の感想はどれも的外れらしく、「この人がどうして死を選ぶか分からない」と言うと、いつにも増して高島さんから反論ばかりされた。
それでも、本を読むことで自分の知らない世界を垣間見た気がしていた。
そうやって、広い世界を見せてくれるのは本と高島さんだった。
そんな日々は続き、夜になると高島さんは度々現れた。
卒業しているにも関わらず、その頻度は段々と多くなったように思えた。
──当然かもしれないが、その頃には高島さんに惹かれている自分がいた。
『今日は、高島さん来るかな』
たとえ物語の世界に入っていても、夜が近付くと部室の扉が開くのを心のどこかで期待しつつ、ページを捲っていた。
その日は夕方頃まで部室にいたが、終わらせなければいけないレポートがあり、早めに帰ってしまっていた。
けれど夜になって、明日早くから使う物が入った鞄を忘れたことに気付き、慌てて部室に取りに行った。
そして扉を開けると、何故か高島さんが電気も付けずに机に伏して眠っていた。
窓が少し開いていて、肌寒い風が部屋にも入っていた。
目の前の状況に少し呆れながらも、窓を閉めに奥に入ってから、机の上にある自分の鞄を取るために高島さんが眠るすぐ横から手を伸ばす。
そしてレポートのためにすぐ帰るつもりだったが、そばで眠る高島さんを見て、つい隣の椅子に座ってしまう。
ここまで私が物音を出していても、規則正しい寝息は止まらなかった。
毎日顔を合わせる訳ではなかったが夜の部室にはよく来るらしく、『家が好きではない』と、何度か言っていた。
起こすことに躊躇したが、秋になると夜も寒くなる。風邪を引いて欲しくなくて、結局起こすことにした。
「高島さん、起きてください」
何度かそう呼び掛けたが、起きる気配はなかった。高島さんの表情は伏していて分からなかったが、目の前で寝ている姿を見ていると、どうしようもなくなった。
──自分の手をそっと乗せ、高島さんの頭を撫でる。
すると高島さんは頭を上げ、ゆっくりと私の方を見た。
「……あー、今何時? てか、お前いたの?」
「もう十一時ですよ。早く帰って寝て下さい」
そう言いながら、自分が今したことに気付くと高島さんから顔を背けた。
──自分で思っていたよりも、私は高島さんのことが好きかもしれない。
そう思うとどうしようもなくて、それから態度にも出るようになってしまっていた。
恥ずかしくて好き≠ニは言えなかったけれど、高島さんの前の自分と他の人の前での自分は全く違っていた。
けれどそんな私がいる横で涼しい顔をしている高島さんに苛付き、つい伝えてしまったことも何度かある。
「いい加減、付き合ってくださいよ」
そう言うと、本を読んでいた高島さんは笑い出す。
「なんで俺が、そんな生産性のないことをしなきゃいけないんだ。お前みたいな知識も知恵もない馬鹿となら、一人でいた方がマシだね」
そう言うと、私の方を全く見ずに視線を本に戻す。
何度もそういうことがあった。その度に、もっと学ばなきゃと思って本を開いた。
──そうすれば、高島さんに近付けると思っていた。
その日は補講も重なり、全てのコマに授業が入ってしまっていた。
それでも読みたい本があったので部室に行ったが、疲れのあまり珍しくそのまま椅子に座って眠ってしまった。
違和感に気付いて目を開けると、目の前に高島さんが立っていた。
そして高島さんの両手は、何故か私の首にあった。
寝起きで頭がよく働かず、自分の状況が把握出来なかった。
高島さんは口も開けず、ただじっと私を見ていた。
その時ふと、小学五年生の頃の自分を思い出した。
──無意識のうちに、忘れるようにしていた記憶。
あの頃の私は、人形のように教室で扱われていた。
蹴られたりして、やり返すことも出来ずにその場に倒れていると、ある男の子が私の首を掴んだ。
何をされるかは分かっていた。いつものこと過ぎて、抵抗することさえ忘れていた。
「……そういえば昔よく、首を締められてました」
そう言うと首にかかる力が少し弱まった気がしたが、温かさは感じたままだった。
「毎日締められてて……でもそれが普通だと思ってて、今までずっと、気にしてませんでした」
笑みを浮かべながら上に乗り、真っ直ぐとした瞳で私を見下げる男の子──けれど私は、その彼が好きだった。
彼の手が私の首にあることが普通と化していた。でもいつから、首を締められないのが当たり前になったのだろう普通≠ェ変わったのは、いつだったのか。
そんなことを考えていると、段々と意識がなくなった。
目が覚めて起き上がると、既に日付が変わっていた。
「いつかと逆だな。もう遅いぞ、送ってくか?」
高島さんはいつものように向かい側に座って本を読んでいた。その姿を見るとさっきの出来事が何だか夢のようで、一体何をしたかったのかが聞けなかった。
──ただ、首にかすかな感触は残っていた。
それからも特に何も変わらず時は進んだが、雪も降り出す時期になると、高島さんは車で来るようになった。
今までも帰りは自転車の荷台に乗せてもらっていたが、車の中は暖かく、何より助手席に乗れるのが嬉しかった。
そのままドライブに行く事もしばしばで、著名な場所を通るとその歴史をよく解説してもらった。
あの湖の埋め立ての話も、その際に聞いたことだった。
そして二年生になり、部室の常駐度から私は部長に任命され、ますます文学部の部室に居付くことになった。
高島さんが昼間何をしているかは相変わらず分からなかったが、部室に来ることは多かった。
今年の一年生の何人かも、高島さんと知り合いになっている。
だけど大概早く帰るので、相変わらず遅い時間になるといつも部室で二人だった。
そしてまた夏が訪れ、高島さんと出会って一年になる頃だった。
その日も部室にいると、偶然一緒にいた一年生の男の子から突然告白をされた。
四月からずっと憧れていたと聞き、嬉しさと驚きが一度に来たが、「いつも色々な本を読んでいて物知りで、みんなをまとめたり出来る部長に惹かれました」と言われると、つい笑ってしまった。
──高島さんが聞いたら、笑うに違いないと思った。
その日部室で待っていると、案の定高島さんは現れた。
いつものように話した後、さっきの話を報告した。
「そいつも趣味悪いな」と高島さんは呆れていたが、初めての出来事だったのもあり、私は終始笑顔でいた。
「返事どうしたらいいと思います?」
「好きにしたらいいだろ」
そう言って、高島さんは持ってきていた本を開いた。
「少しぐらい、寂しがってくださいよ」
冗談っぽくそう言っても、高島さんは顔も上げずに相手にさえしてくれなかった。
──やっぱり高島さんにとって私は単なる後輩で、誰と付き合おうと関係ないのだろうな。
そう思い至った私も本を開き、その話は終わった。
それから何度か部室で会ったが、高島さんは何も変化がないように思えた。
ただ、何か聞いても返事が素っ気無い感じもしたが、気のせいぐらいにしか思っていなかった。
──そんな風に、全く気付けなかった自分がいた。
それからしばらくして、家にいると突然携帯が鳴った。
相手は珍しいことに高島さんで、電話は初めてだった。
不思議に思いながら電話に出ると、怒鳴り声で突然罵られ、何を言っていいかも分からなかった。
「どうして、そんなに怒っているのですか?」
落ち着いたのを見計らい、やっとの思いでそう聞いた。「この前のことだろ」
そう答えた高島さんの声は、明らかに苛立っていた。
「この前って、何のことですか?」
そう言うと、さっきの冷静さが嘘だったかのように「近寄るな」「消えろ」「死ね」などの暴言が携帯から響き、捲し立てられた私は何も答えられないでいた。
高島さんが何を言っているのか、全く理解が出来なかった。一緒にお酒を飲んだことはなかったが、電話の向こうの高島さんは酔っている様な感じがした。
けれど、死ねなどの言葉が続く中で「いい加減気付けよ」と聞こえた時、さすがに察した。
──高島さんが、一体何の話をしているかを。
「高島さん、私、今気付きました」
暴言と同じ勢いで言ったらしく、私がそう言うと高島さんが電話の向こうで言葉を噛み殺すのが伝わってきた。
「ごめんなさい。高島さんは違うって、ずっと思ってて」
そう言った途端、電話の向こうから笑い声が聞こえた。
「あっそ、よかったね。手遅れだけど。謝罪なんていらないから。さっさと消えてくれればいいよ。死んでくれ」
あの低い声で告げられると、電話が切られた。
何がどうなっているかも、よく分からなかった。どうしていいかも分からなくて、家を飛び出した。
そして着いた先が、あの湖だった。
* * *
湖から出た後、海へ行こうと思って自転車を走らせた。
ただともかく、海に行きたかった。あんな湖ではなく。
自転車を漕ぎながら、さっきより冷静になった私は電話のことを考え始めた。
──死ぬことは出来ないとしても、電話で言われた通りだと、高島さんとはもう二度と会わないことになる。
確かに私は、高島さんのことが好きだ。けれど、その思いが迷惑にしかならないのなら……いなくなるべきだと思う。
それにそれが高島さんの望んでいることなら、従った方がいいのかもしれない。けれど。
いつの間にか、川沿いのホテル街を走っていた。
今まで人影もなかったが、酔った男女と何組か擦れ違った。
そんな場所を自転車で一人走りながら、そういえば高島さんのことが好きでも、こういうことは考えなかったな、と思った。
──私はずっと、高島さんのことを見上げていた。好きと同時に憧れで、尊敬していた。
ずっと好きだったけれど、高島さんの横で自分が歩く想像は出来なかった。
ただ、認められたかった。
幼い恋だったのかもしれない。
けれども、高島さんのことを考えると胸が苦しくなるのも確かだった。
後輩から告白された時に笑ったのも、高島さんのことを考えたからだ。
──この子は高島さんと出会って変わった私を好きになってくれたんだな、と。
告白を受ける気なんて、最初からなかった。高島さんだってそう分かっていると思っていたからこそ、あんなことを言ったのに伝わってないのだろうか。
私は、高島さんと距離を置くべきなのだろうか?
その時ふと、首を締められたことを思い出した。
何となくずっとそのことは放置していたけど、考えてみると首を締められたのはおかしいことだった。
何故、高島さんはあんなことをしたのだろう。
いつも締められてばかりで、首を締める側のことなんて今まで考えたことがなかった。
──再び、忘れていた記憶を思い返す。
あの小学校の男の子も本当は優しくて、以前は一緒に遊んだこともあった。
家で飼っていた小鳥が逃げたと私が言うと、一緒に探してくれたこともある。
──しばらくして彼の両親は離婚し、母親は殆ど家にいないと聞いていた。
首締めが始まったのはその後だ。
誰にも助けが言えなくて、彼は私にぶつけていたのだろうか。
受け止められるのは、私だけだったから。
──だったら高島さんが首を締めたのも、私を試そうとしていたからでは?
そう気付いた時、自転車を漕ぐ足を止めた。
以前、文学部の先輩と話していた際、今でも高島さんに対して敬語だと言うと驚かれたことがある。
『敬語を使われると、そこに何だか踏み込めない隔たりを感じる』と、高島さんは漏らしていたらしい。実際、先輩方は誰も高島さんに敬語を使っていなかった。
「笹川さんはよく部室で洋さんと会うみたいだから、てっきりもう敬語やめてると思ってたよ」
そう言われたが、いつも道を示してくれる高島さんにどうしても敬意を表したくて、ずっと敬語のままだった。
それでも、『付き合ってください』とは何度も言っていたが、その度に高島さんはいつもその言葉を擦り抜けた。
──それは憧れも混じった私の気持ちがどこまで本気なのかを、高島さんは計り兼ねていたのかもしれない。
だけど、首を締めることを拒まれるか否かで、命を預けているかが分かるのではないか?
私を信じようとして、あの時首を締めたのでは?
高島さんは一見、明朗かつ博識で体格も良くて性格もしっかりしている分、何でも出来る印象が強い。
けれどその一方で、死を選んだ作家が好きだった高島さんは、死に憧れに近いものを抱いていたかもしれない。
思い返せば、高島さんは山月記に出てくるあの虎のような部分があるのかもしれない。
いつも強気で接しているのは実は表面だけで、高島さんのもっと深いところには弱い部分があるのではないか。
──虎は死にたくても死ねない人の成れの果ての姿だ。そしてそんな山月記の作者は自殺ではなく、病死だった。
疑問は一度沸きあがると、止まらなかった。
高島さんのことを知っているように思って、実は私は何も分かっていなかったことに気付いた。
電話で傷付ける言葉を呟き続けたのは
首に手をかけながら、じっと私を見ていたのは
────その人が誰なのか私はまだ、知らない。
そしてその見えない高島さんが少しずつ私を信じ始めていたのに、気付かないうちに傷付けてしまった。
そう思うと、道にも関わらず涙が止まらなかった。
反論しながらも結局私は、高島さんから言われたまま今までずっと鵜呑みにしてきた。
けれど、あの電話で言っていたことよりも、もっと信じなきゃいけないことがあったのを気付こうともしなかったことに気付いた。
だけど、もしも高島さんが本当にそうやって傷付いてしまっていたなら。
そして高島さんも私と同じ気持ちなら……伝わっていて欲しかった。
『あなたになら殺されても良かったから、あの時私は拒まなかった』と。
涙は止まらないまま、道の真ん中からもう一度自転車を漕ぎ始める。
漕いでいるうちに邪魔だと感じ、持っていた携帯をズボンのポケットに入れた。
何時間漕いだかは分からない。
伝えたいことがあって、ただひたすら漕ぎ続けた。
そして、海が見えて浜辺に着いた時には、朝日が昇り始めていた。
自転車を置いて海に向かって歩き出してから、携帯を取り出して一番新しい着信履歴にかける。
拒否されているかが怖くて、電話を切られてすぐにはかけ直せられなかった。
けれど一回目の呼び出し音の後、繋がった音が聞こえた。
電話の向こうは無音だった。
だけど今確かに、私たちは繋がっている。
浜辺の真ん中で立ち止まる。周囲は青からオレンジに染まり始めていた。
波の音だけが辺りに響いている。
電話の向こうから音はしない。
けれどきっと聞いてくれていると信じて、言えなかったあの言葉を口にする。
────もう一人のあの人に、会うために。